Other
Campanella



娼館での一件から一夜明け、再び夜が訪れた。
グ・ラハはアスランの宿泊している宿の部屋を訪れ、うなだれていた。

「…は?勃たなくて結局何もできなかった?」

昨日の今日でグ・ラハのほうから訪ねてくるとは思っていなかったアスランは良い方面の感想を聞けると期待したのか、
「昨日はどうだった?」と何気なく問いかけたのだが、予想していなかったグ・ラハの回答に素っ頓狂な反応を示した。

ベッドの淵に座って両手で顔を覆い隠しながら、彼の驚いた表情と反応に絶望的な声で首を振った。
「……おいやめろ、復唱すんな」
「悪い、けど…そっか、一体何で・・・」
アスランは、宿に設置してあった椅子に逆向きに腰掛けていて、背もたれに両腕を乗せている。
「そんなの、こっちが知りたいっつーの」

グ・ラハは結局、あの後娼婦との情事には至らずに夜を終えた。正確に表現すると、「至れなかった」のだ。
彼女に問題があったわけでもなく、自分自身も気分としては高揚していたはずなのに、どういうわけか下半身が全く反応を示さなかった。
夜に一人で熱を冷ますことも普通にあり、自身の機能に問題はないことも自覚していた手前、あの夜にだけ一切反応がなかったことが不可思議でならなかった。焦燥は更に焦燥を呼ぶ悪循環を引き起こし、全身の体温が下がるといよいよ盛り上がりもなくなった。
気を遣い、必死に付き合ってくれた娼婦に対しても申し訳なさが募ったグ・ラハは暫く試した結果、夜を過ごすことを断念し、なけなしの自費で支払いを済ませて深夜の内に館を後にしていた。
自分自身でもどうしてあんなことになってしまったのか原因が分からず、グ・ラハは満足に眠れずに悶々とした夜を過ごした。
一晩考えた挙句、経験豊富な冒険者であるアスランに思い切って打ち明けてみることにして、現在こうして彼の部屋を訪れている。

例え解決策がなかったとしても、他人に話して面白おかしく笑ってもらえれば多少は気が晴れると思ったのだが、想定以上に目の前の青年は誠実なようで、嘲笑もせずあらゆる可能性を考察しながら自分のことのように思考を繰り返している。
「見た目の好みか?…いやでも、聞く限り息子以外の反応は普通っぽいけどな…もしくは」
ぶつぶつと小声で何かを呟くアスランの声音からは、彼がグ・ラハを気遣っていることが感じられるのだが、その優しさはグ・ラハにとって返っていたたまれない心境を生んだ。
全く気が晴れないまま大きく溜息をつくと、アスランはそれに気づいたのか「悪かった」と唐突に謝罪した。
「何事も経験だ…なんて偉そうにけしかけたけど、返って不快にさせたか?」
「別に、あの館に入るって決めたのはオレ自身だし。あんたに非はないだろ」
彼は「ならいいけど」と椅子の背もたれの上で組んでいた腕に顎を乗せて沈黙した。

「…まぁ、今までは問題なかったなら、緊張とかそういうので調子が出ないときもあるってことだろ…あんまり気にするなよ」
そう言ってアスランは椅子から立ち上がり、「紅茶でも飲むか?」と意識的に明るく言いながら備え付けの調理台で湯を沸かし始めた。次第に湯が沸く音が聞こえ始め、同時にカチャカチャと食器を用意する小さな音が響く。
紅茶を淹れている動作は様になっていて、とても手慣れているように見えた。どうやら彼は人の世話を焼くのが好きなようだ。
「・・・あんたって、お人よしだな」
「え?」
グ・ラハはつい思ったままの率直な所感を述べてしまい、アスランはつい聞き返した。
冒険者という者は概ね俗物的な思考の持ち主が多いとつい思っていたのだが、彼の場合はどうやら対人においては親身に接する質のようだ。
「こんな仕様もない話に真面目に取り合うなんて、笑ってからかったりするとかすればいいだろ」
「そんなことしないさ。グ・ラハはああいう場所は初めてだったんだろ?誰だって最初は失敗したりするもんだ」
アスランはそう続け、出来たばかりの紅茶を差し出す。受け取られたのを確認すると、彼は部屋の窓の方へと歩いて行き、窓の嵌め込んである壁に背を預けて斜めに立った。
グ・ラハは紅茶を啜りながら彼の言葉を心中で反芻させる。その台詞は紅茶と共に体内へゆっくり浸透して行く。
内容が内容だけに多少の情けなさは残るのだが、それでもグ・ラハは徐々に胸が軽くなる気がして、ほっと息をついた。
「そう、だよな・・・大事なのはそういう経験からも何かを得ようともがくこと、ってか」
そう呟くと、アスランは「へぇ」と感心した声を出した。
「前向きじゃないか。そういう考え方が出来るなら充分さ。俺、そういう思考回路は好きだぞ」
「…いや、これはオレの好きな本の受け売りだけどさ」
グ・ラハはそこでかつて読んだことのある冒険譚の登場人物が語っていた台詞を思い出していた。
幼い時分から読書を好んでいたグ・ラハにとって、そういった書物から得られる教訓は現在の性格付けに大きく影響を与えており、この言葉はそのうちの一つだった。
「俺、グ・ラハのそういうところ良いと思うよ」
アスランはふとそんな発言を溢した。

「ラムブルースから聞いて歳が近いことも知ってたから、そんな学者ってどんな人物かと思ってたけど・・・考え方も柔軟だし、話しやすいな」
各都市には結構頭でっかちな奴らもいたから、と肩をすくめながら苦笑する今の彼は、冒険者というよりは人間観察や交流を楽しんでいる一面を垣間見せていて、いかにも素の青年といった印象に映った。
「会う機会はこの調査団で活動してる間だけかもしれないけどさ、それでも俺で何かグ・ラハの力になれるなら協力するから、いつでも頼ってくれよ」
屈託なく歯を見せて笑うアスランの口元にはムーンキーパー特有の犬歯が覗いている。
戦っている際の凛々しさやラムブルースたちと会話する真面目な顔とは異なり、親しみのある年相応の笑顔に、グ・ラハはその表情に気持ちが軽くなる思いがした。
英雄と名高い冒険者との距離が少し縮まったような気がしたのも相まって、「へへっ」と肩を上げながら尾を揺らす。
「実はさ、オレもなんだ。オレもあんたのことは最初に見た時からどんな奴なのか気になってた。話がしてみたかったんだ・・・じゃぁ俺達、お互い似たようなこと考えてたってことか」
グ・ラハとアスランはそのまま目を見合わせ、数秒の沈黙ののちにどちらが先となるわけでもなく声を吹き出して笑い始めた。そこには先ほどまで漂っていた悲壮な空気も無く、研究員と冒険者という立ち位置も関係ない、ただ気が抜けた二人の青年が笑いあっているだけの空間だった。




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「じゃぁ、あんた結構いろんな場所へ行かされてるんだな」
「まぁな、行く先々で会う人の話を聞くのが好きだし、別に苦じゃないからいいけど」

二人は暫くの間、他愛ない会話を繰り返していた。
アスランは想像していたよりずっと親しみ易く、グ・ラハとは話が合った。
さほど重要な話はせず、日常で起きている周囲の話をした程度だったが、互いの生活環境や考え方の差に見識が広がる思いがした。
「…あの娼館の娼婦達もあんたに対しては随分親しげだったもんな」
「いや、彼女たちは仕事だしな…それに俺は殆どオーナーと話をしに行くことが多いから」
再びあの娼館の話を振られたからか、アスランは気恥ずかしそうに首の後ろをさすった。
「ふーん…でも特定の相手のことは買ってるらしいじゃないか。俺の担当になった娘が言ってたぞ、高級娼婦を相手に選ぶって」
「えぇ?顧客の情報を軽率に話すなんてなぁ…まぁ相手がグ・ラハだからか、別にいいけど」
彼は小さく肩を強張らせ、後に頭を掻きながら「まったく」とため息をついた。

アスランは事情をかいつまんで説明してくれた。
冒険者になったばかりの頃にあの娼館のオーナーには貸りが出来、諸々の頼みを聞く代わりに時々表に出ない情報を仕入れているらしい。
羽振りの良い依頼を見つけるには商人や貴族の流行りなどの動向を把握することも大事だからな。と、アスランは製作・採集といった面も得意としている彼ならではの視点を語った。
「昨日だって、近くに来たから挨拶がてら顔を出そうと思ってたらあいつら…えっと、一緒にいた冒険者達にどこ行くのか聞かれて…別に隠す話でもないから正直に言ったら全員ノリノリで付いて来てしまったってわけ」
「そうだったのか」
しかし、一拍置いてその話の最後に、アスランは「昨日はな」と付け足して意味深に微笑んだ。その態度がまるで内緒話をこっそりしている少年のような印象がして、グ・ラハは小さく吹き出した。



「…そういえばあの本の中に、そんな風にして情報を集めてる話もあったな」
グ・ラハは先ほど自らも引用した言い回しが登場した本のことを思い出す。その本の中の登場人物は、今のアスランと同じように情報収集をして知名度を上げていた描写があったのだ。
口に出して粗筋を説明すると、脳裏に当時夢中になって読んだ記憶が蘇る。
アスランはその話を静かに聞きながら「あぁ、あの本か…」と、内容に覚えがあるような独り言を零した。「知ってるのか?」と尋ねると、彼は複雑そうな表情で肯定する。
「俺もその本は知ってるし、嫌いじゃない。ああいう物語の冒険者になれたらいいなって…昔は、思ったもんだ」
彼はそう言って窓の外へと視線を向ける。その横顔が一瞬、ほんの少しだけ寂しそうにしていた気がしたのだが、そこには今のグ・ラハが触れてはいけない何かがある気がして、問うことはしなかった。

「えっと…それでさ、さっきの話だけど」
グ・ラハは自ら逸らしてしまった話の軌道修正を図るべく、言葉を繋げてアスランの視線を窓から戻した。
「あんたも、ああいう場所をその…そういう目的で使うことだってあるわけだよな?」
「…何だよ、その話にやけに食い下がるけど、何か気になることでもあるのか?」
妙にその話題に拘るグ・ラハにアスランは遠まわしに何か聞きたいことがあるのかと訝しんだ。
「いや、あんたならどうやって女性をリードするのか気になったんだ。娼婦とか、恋人とか、シーンは何でもいいんだけど」
その質問はさすがに予想していなかったのだろう。アスランは硬直してグ・ラハを見つめた。
「随分突っ込んだ質問だな」
「いやだって…オレ、つい昨日女を抱こうとして失敗してんだぞ…正直、さっさと克服しないと、傷になりそうで怖いんだって」
それは嘘偽りない真実だった。同時に、彼に対する興味が引き起こした質問でもある。
知識欲という魔物は節操がなく、彼と打ち解けることに成功したグ・ラハは、つい男性としての彼の異性の扱い方に興味が湧いたのだ。
今回においてグ・ラハは盛大な失態をしてしまったわけだが、思い出してもあの時の娼婦とのやり取りはお世辞にもスムーズとは言えなかった。会話も極端にぎこちなかったことは自分自身が最も自覚しているところだった。
…であれば、何かの機会にリベンジを図った際、彼の手管を知っておくことで良い方向に傾くかもしれない。そう考えたのだ。

気恥ずかしそうにしつつも「そうだな」と言いながら、それまで壁に預けていた背をゆったりと離し、グ・ラハの前へと戻ってくると、紅茶をサイドボードへ置いて緩やかな仕草でベッドの隣に座る。
「俺だって、別に特別なことはしてないけどな…雰囲気づくりに酒を交わしたり、相手のスタイルや容姿とかを褒めたり…」
「容姿を褒める…そっか」
冒険者の武器が戦闘の腕前であるなら、彼女たちにとっての武器は自分自身の容姿だろう。
客を満足させるため自らを精一杯磨き上げ努力する彼女達を労う意味も含め、容姿を褒めてやるのは効果的であるとアスランは語る。
「何でも良いんだ、話をして緊張を解す。それであとは、彼女を観察してみて好きな部分を探したりするかな…けどさ」
普段何気なくしていることを言葉にしているせいか、彼は思案しながら一つ一つ言葉を紡いでいく。
「まず相手を知りたいと思うのは俺にとっては同じだ。今俺を見てくれる相手がそこにいるなら…俺も相手だけを真っすぐにみる。娼婦だろうと恋人だろうとさ。そうすればきっと何かが通じ合うって思うから」
「そんなもんか」
目は口ほどに物を言うといった言い回しがあるが、恐らくこれはそういった相手の気持ちを知りたいという心理ゆえの、彼なりのスキンシップなのだろう。
そんな彼の言葉に耳を傾けつつ、グ・ラハは彼が至近距離へと寄って来たことにより別のあることが気になった。昨夜も彼に耳元で囁かれたときに漂った”香り”が、再びグ・ラハの鼻をくすぐったからだ。

「っていうか昨日も思ったけど、これ香水か?嗅いだことない香りがするけど」
それは清涼感と同時に甘い――、何とも言えない香りで、不思議と穏やかな気分になる気がした。
「冒険者なんてやってるとシャワーを浴びる機会も少ないからな。調合して使ってるんだ」
さすがに自分で調合しているとまでは思っていなかったので、グ・ラハは少しだけ驚いた。
手に持っていた紅茶をソーサーごとサイドボードに置き、不躾だと感じつつも彼の纏う空気を敢えて嗅いでみる。
確かにそれはただ甘いだけではなく、適度にスパイシーな刺激もあり、複数の香料がバランスよく混ぜられているように感じた。
「つけること自体は他人から教わったというか、半ば強要されたものだけど。どうせつけるなら自分の好きなものにしたくてさ…市販のは香りがキツいものもあるし」
「へぇ、オレも何かつけてみよっかな…」
「こういうのは嗜好品の類だし、本来無理に使うものじゃないさ。興味があって気に入ったものを適度に使えばいいんだよ」
「ふぅん」
グ・ラハは自分自身の生活スタイルを思い返してみる。
現地調査で何日も外に出ることだって数えきれないほど経験してきたし、戦闘だって多少は心得ているが、香水を日々常用するような習慣は持っていなかった。
こういった嗜みを身に着けている人物はシャーレアンにも多く居たのだが、使いこなしている相手を見ているとそれだけでその人物に箔がついているかのように感じるのは、自分がそういったものに明るくないゆえの錯覚に近い感覚なのだろう。

「一つ忠告だけど、こういうことは他人から教わって実行しようとしたらかえって嘘くさくなるだけだぞ」
アスランは唐突にそんなセリフを口にした。
「気になる子がいるなら、自分のありのままでぶつかったほうがいい」
「え?」
言葉から察するに、彼はどうやら娼館の件とは別でグ・ラハに想い人がいると思っているようだった。
グ・ラハがことさらに女性の扱いについて尋ねたことで、そう勘違いをしているのだろう。
「グ・ラハは頭もよくて顔立ちもいいし、手段をわざわざ知識として吸収しようとしなくたってうまくいくさ」
一通りの誉め言葉を間近で何の恥ずかしげもなく告げていくアスラン。見当違いな応援に、グ・ラハはどう返せば良いかを少しだけ悩んだが、「そうだな、そうだといいけど」と当たり障りなく回答することにした。
「まぁ娼婦の子みたいに仕事で付き合ってくれる相手ならともかく、普通の子なんだとしたら…ある程度はその場の雰囲気に任せて勢いをつけたほうが上手くいくかもしれないぞ」
「勢い?」
「そう。こんな風に…よっ」
そう言ってアスランはとん、とグ・ラハの肩を押した。
バランスを崩したグ・ラハはそのまま後ろに倒れ込み、ベッドに仰向けに寝転がった。

柔らかい衝撃が過ぎ去り、ゆっくりと目を開けるとそこには穏やかに微笑む金色の瞳があった。
アスランは両腕をまっすぐに伸ばし、その腕と片膝をベッドにつく形でグ・ラハに覆い被さり、彼の顔を覗き込んでいる。どういう女性の扱い方をするかと問うたのはグ・ラハのほうではあるが、まさか押し倒されるとは思っておらず、そのあまりの距離の近さにグ・ラハは息が止まりそうになってしまった。

「あ、そういえば…グ・ラハも目が綺麗だよな」
アスランはそんなことを何気なく口にする。この状況でありながら、彼は全く動揺している様子はない。
同時に、グ・ラハは突然自分自身の容姿について言及されるとは夢にも思わず、つい間の抜けた声で聞き返した。
アスランはするりと自然な動作でグ・ラハの頬を指の背でなぞるようにして触れる。香水の香りも相まって、グ・ラハは必然的に心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「左右で違う緑と赤の瞳だよ、鮮やかで綺麗で…俺は色が薄いから、そういう色の瞳は割と魅力的に見えるよ」
彼の目に見惚れつつ、その間もずっとアスランはずっとグ・ラハのことを見つめ続けていた。

グ・ラハにとってこの「紅血の魔眼」は、血族から受け継いだ重要なものであると同時に、幼い頃は苦い思い出も経験する要因ともなった特徴だ。片方だけが血のように紅い眼は、幼い頃は同世代の子供たちに凶兆の印のような扱いで揶揄われ、時にはそのことで喧嘩になったこともあった。
しかしそんな記憶も遥か昔の話となって久しく、大人になってからは瞳に関して言及されることなど殆どなくなっていた。ゆえに彼の言葉はグ・ラハにとって新鮮に聞こえた。

グ・ラハはそのままアスランの顔を観察してみることにした。先ほどまであまり気にしていなかったのだが、彼はそこそこ端整な顔立ちをしているようだ。
薄暗い部屋に、自分よりも少し白い肌がぼんやりと光を反射し、二つの金色の瞳がグ・ラハを真っすぐに見つめている。
「あんたの目は金色なんだな、晴れた夜のシャーレアンで見る月がそんな色してる…」
「それはどうも」
囁くような声音が耳をくすぐり、むず痒さに居心地が悪くなる。つい目を逸らしたくなったが、妙な対抗心が湧いたグ・ラハはそんな衝動にもじっと耐えて彼を見つめ返す。すると、アスランはなぜか声を漏らして笑った。
「グ・ラハ・・・顔真っ赤だぞ、さすがに刺激が強すぎたか?」
「えっ」
グ・ラハはそこで、自分自身の頬が言い訳も効かないほどに紅潮していることに気づく。
自覚をしたせいか、それはますます色が濃くなり、グ・ラハは自分の体温がかあっと上昇していくのを感じ、文字通り頭から足先まで真っ赤になってしまった。
「ほんと、お前反応が分かりやすいな。見てて飽きないよ」
そこでアスランはグ・ラハを「お前」と呼んだのだが、グ・ラハはその点に関して気付く余裕がなかった。

反応が可笑しいのかアスランは微笑みを崩さないまま、挑発するように首を傾げる。
「で、どうする?まだ知りたいか?」
「え…?」
「ここから先どうするのかって、元々はそっちが聞いてきたんだろ」
「先、って」
グ・ラハは彼のセリフをそのまま繰り返した。
口では復唱出来ても、この特殊な状況のせいで思考が追い付いていなかった。
彼はそこで体勢を変え、自分自身を支えるために伸ばしたままベッドに立てていた腕をゆっくりと曲げる。
同時に、先程までベッドの淵に膝を立てていた状態だった下半身も移動させ、完全にグ・ラハの上に覆い被さる形になった。
アスランの体重が伸し掛かり、他人の体温が服越しに重なる感覚に、背中を下からなぞられるかのようなぞわりとした震えが迸る。
昨日彼に突如耳元で囁かれた際に感じたあの感覚だった。
彼の纏う空気に色が加わった気配を感じ、そこでグ・ラハは示唆されている内容の正体に気付いて身体が強張る。
「言っただろ」
ふと、アスランは不敵に、しかし柔らかさを崩さずにグ・ラハに笑いかける。
「俺を気にする相手に対しては、俺も同じだけ見つめ返すって」
「…!」

彼は娼婦だろうと誰だろうと接し方は変えない・・・
たとえそれがグ・ラハでも、同じように相手をするということを指していた。
グ・ラハはその言葉の意味を感じ取り、心臓が大きく跳ねた。

「じ、冗談・・・だよな?」
その質問には答えず、アスランは投げ出されたグ・ラハの腕を肘付近から指先に向かって手のひらでゆっくりと撫でて行く。そうして自分の手をグ・ラハの手に重ね、首筋に顔を近づけた。
「え、ちょっと・・・本気なのか?待てって、あんた」
突然何も言わなくなり、密着しすぎて彼の表情すらまともに確認できなくなったグ・ラハは、冗談かどうか分からず混乱を露わにした。
全身が彼の所作に注目し、あらゆる箇所へもたらされる刺激に情報量が追い付かず身動きが取れない。
僅かな衣擦れの音すら気になってしまって、本来なら同じくらいの力で押し返せるはずが動揺で頭が真っ白になっていた。

「ちょっ、ふざけるのもいい加減…!?、ひぁ」
アスランが身を捩った際、彼の大腿がグ・ラハの半身に擦れ、身体を軽い電撃が走るかのような刺激がグ・ラハを襲う。自分でも予想外の声が漏れ出てしまい、冷や汗が頬を伝った。
すると、ぴたりとアスランの動きが止まる。
そして少しの沈黙ののちに微かに肩を振るわせ始めた。

ーー彼は声を堪えて笑っていた。
腹から溢れ出る笑いを必死に抑え込んでいるようだっだ。
その瞬間、グ・ラハは自分がからかわれていたことを察し、思考を放棄していた脳に血が通い始め、羞恥と怒りに再び顔が紅潮する。
「…!」
ぐい、と彼を押し退けると、アスランはごろりとベッドを転がりグ・ラハの隣に横たわる。アスランが退いたのを確認するとグ・ラハは間髪入れずに反動をつけて起き上がると、彼を恨めしそうに睨みつけ背を向けた。
「悪い、あんまり分かりやすく緊張し出したから面白くて・・・」
背中越しにかれの様子をうかがうと、口元に手を添えて笑う彼は全くペースが崩れていない様子で、それが殊更にグ・ラハを苛立たせた。優しくお人好しな冒険者だと認知していたのだが、どうやらそれだけではなかったらしい。グ・ラハは彼の評価を改めることにした。
「あんた、いい奴だと思いきや案外性格悪いんだな。さすがに悪ノリしすぎだろ…びっくりした」
「別に、俺は自分がいい奴だなんて言ってないだろ。けど安心しろ、俺は依頼者側の奴に手を出すつもりはないさ。揉め事は嫌だし、グ・ラハはもう友達だしな」
静かなる抗議も意に介さず自然に振る舞うアスランは、そのままサイドボードに置かれた2人分の紅茶のカップをソーサーごと持ち上げて流し台へと運んで行く。

「けど、言い寄ってくる相手が異性だけとは限らないぞ。冒険者の中には誰だろうと構わずの色好みもいるから、油断しないよう…ってあれ、戻るのか?」
アスランの会話を聞きながら、グ・ラハは帰り支度を始めた。
「あ、ああ、意地悪な冒険者にこれ以上玩具にされないうちに、今日は帰るっ!」
グ・ラハはどうあっても彼に口や経験では勝てそうになく、「いつか見てろよ」と悪態を尽きながら大股に扉の前へと進んでいく。
そんなグ・ラハを横目に見ながら、アスランは口元が緩んでいる。必死に背伸びをする子供を見ているような目をしている気がして、グ・ラハは更に胸がざわざわとした。
「女遊びの前に、グ・ラハは予想外の出来事にも冷静に対応するだけの度胸が必要だな」
一体あと何年かかるんだか・・・そんな台詞を最後に、かちゃかちゃと食器を洗い続けるアスランを素通りし、グ・ラハは部屋の扉を開ける。
「今日はその、変なこと聞いて悪かった。とりあえず…おやすみ」





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自らに宛がわれた滞在用のテントへと戻ったグ・ラハは、そのまま寝台へと寝そべった。
それは先ほどの宿屋のベッドよりも堅く、簡素で冷たい。しかし、その冷たさはグ・ラハの感じている感情を鎮めてはくれなかった。

下腹部が疼く。その感覚にグ・ラハはベッドの上でうずくまった。

「……嘘だろ」
娼婦との夜には一切機能しなかった身体が、あろうことか一介の冒険者との触れ合いで僅かに反応している。
その衝撃に自分自身でも焦燥が膨れ上がり、血の気が失せた。
自らが反応していると気づいたのは先ほど彼と密着していた最中であったため、ゆえにグ・ラハは足早に会話を切り上げ部屋を飛び出してしまった。
去り際の彼の表情を思い出す。
自信と余裕に溢れ、自分では到底及ばない領域にいる相手であることを身をもって実感した。 戦闘面は既に明らかになっていたが、今回はそれ以外の方面でのことで、端的に言えば完敗だった。

彼は、自分のことを完全にからかっていた。弄ばれてしまった未熟な自分が、どうしても悔しかった。
けれど同時に、ありとあらゆる楽しみを知り、自らの存在を精一杯使って世界を謳歌していることがあの瞳から感じ取れて、圧倒的な引力を持つ動的な生命力に自然と魅入られた事実に、グ・ラハは拳を握る。
腹が立つのに、何故か嫌悪感はない。とにかく不思議な感覚が胸に渦巻いていた。この感覚は何なのだろうか、とグ・ラハは考えるが、その答えはまだわからない。
ただ、彼は自分に…この先何かとてつもなく大きな、途方も無い出来事をもたらしてくれるかもしれないと漠然とした予感が奔った。
その予感はささやかで、けれど確かに…まるで朗読劇が始まる前に鳴らされる小さな鐘のように、グ・ラハの胸の中に響いていた。

いつか彼を出し抜いて、あっと驚くような何かを自分も仕掛けてやれるだろうか。
ーーもしそんな日が来たのなら
「オレもあんたの隣に、堂々と立てるのかな」

そんなことを考えつつ、グ・ラハは先程から鬱陶しく半端に屹立した自分自身におずおずと手を伸ばす。

―――世の中に聖人君子などはそうそういない。
グ・ラハは複雑な気分になりながらも、彼を出し抜く方法より先に、この熱を冷ますためにどんな想像を巡らせるべきか、それについて悶々と考え始めることにした。

【終】


Campanella
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